八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.212


【掲載:2022/4/28(木曜日)】

やいま千思万想(第212回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一

残酷さと平安とが冷酷に ひょうひょうと流れる日常

  世界は今日も緊張感に包まれているというのに、我が国では変わりない日常生活が続いています。
世界から見れば、特にヨーロッパからは異様な国と見えるらしいです。
陸続きで戦が続いている国々と大陸から離れた島国とでは比べられない事情があるとは判っていても、どうも孤立化しているとも見られているようです。
このような時期だからこそ日本が率先して遣らなければならないことがあるようにも思うのですが、その動きは目に見える形では表れていないですね。
せめて難民の受け入れを、と思います。

 ある高名な社会学者が「日本はどのように働くべきでしょうか」という問いに、「何もすることがありません。何もできません。
何の影響も与えることができないでしょう」と応えていたのが印象的でした。
その学者さんがその次に呟いた言葉が「施政者も国民も民度が低いですから」。
ちょっとビックリしましたが、しばらく様々なことが脳裏を駆け巡った私は〈納得、同意〉に至ります。

 ヨーロッパのように学校に通い始めた幼い頃から政治についての授業があり(最近よく耳にする「強制的な国家主義化」ではなく「民主主義」についての授業)、
家庭でも、友人たちの間でも、人が集まれば政治について意見を闘わせる社会とは比べようがありません。
確かに我が国では日常的に「政治」が語られているとは思えませんし、一部の人がそのような意見を述べようとすると、
「ここではやめておきましょう」と打ち切りを言う人が必ず居ます。
意見の対立が感情的になって建設的な〈意見交換〉とはならず、最悪〈喧嘩〉になることも。
いつの間にか、意見交換で〈他から学ぶ〉ことを知らない国になってしまった、そう思えます。

 先日、東京で演奏会を開催しました(「東京コレギウム・ムジクム合唱団」第23回定期演奏会)。
過去の大戦中でも演奏会は成されていたというヨーロッパの文化と違って、何かしら後ろめたさを感じてしまう習性がいつ頃からか備わってしまったようです。
推奨されて良い開催、活動であると思うのですが、なかなかそうとばかりは言えない雰囲気もあります。
「静寂(無音)」の尊さと「感情の変動」を愉しむ。今回の演奏会はそれを軸としました。
選んだ曲も、〈無音〉が意味を持つ楽曲。純粋さと拮抗する音とが結び合い、そして突然無音となる・・・・・・響きのない空間。
その無音の中に発しない言葉が埋められます。
言葉が何と切実に意味を持って心に入って来ることか!無音の瞬間が何と充実することか!
「感情の変動」の曲、それは人間の感情を雄弁にステージに映し出す曲。
最弱音から最強音まで、言葉に言いあらわせない心の動揺を大きく波打つものとして描き出す。
合唱団員も聴衆もマスクで顔を覆っています。
ホールの真ん中に立つ指揮者だけがマスク無し。
曲が終わって振り返ると、聴衆の「目」が生き生きとして光を放っているように見えた私です。
日常は残酷さと平安とが様々な様相を持って、止まることなく進んで行きます。

 



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