八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.221


【掲載:2022/9/01(木曜日)】

やいま千思万想(第221回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一

物事は「ミクロ」と「マクロ」で観て結論を

  「刻(とき)」は止まること無く刻まれていきます。ちょっと「時間よ止まれ!」って叫んでみたくなる時ってありません?
時間の感じ方は人によって、場合によって異なりましょうが、行き詰まった時などつい叫んでみたくなります。
まぁ、SF(空想科学物語)とは違って刻を止めることなどできないので、過酷にも時間が襲って追ってきます。
「時間」との折り合いが人生にとって大切な「鍵」となりましょう。

 ニュースが矢のように飛んできます。
それぞれの分野で放たれるのですが、今は自分の周りのことではなくこの日本で起こっている政治に絡むニュースです。
理解しがたいことが多くてどう受けとめてよいか途方に暮れます。
「コロナウイスル・オミクロン株」「政治と宗教」「原発」そして今は「国葬」でしょうか。

 原子力発電に関しては「脱原発」と匂わせておいて、一転「原発再稼動と新設置」、そして国葬についてはこれまでの一般的な解釈を変えての強行。
東日本大震災での「福島」は未だに解決されていません。ゴミ処理は世界の重要課題で有り、対処法はまだ決まっていません。
地球汚染そのものに関する重大な課題であるのに、その説明がされないで強行を狙う。その中での再稼動宣言?
ウクライナでの原発の奪い合いで判るように、人類の未来さえ危ぶまれる原子力の利用問題はもっと議論されて良いはず。
しかし国会は開かれず、議論無く、一部の人たちの思惑によって何もかもがなし崩し的に行われていく。

 「時間よ止まれ!」って叫んで刻を止め、過去に戻って検証を繰り返し、最良の方策を摸索する。そんなことにならないものかと夢想する私です。
いつの頃からか、物事を捉えるには「マクロ」と「ミクロ」の両方の観察が必要だと知りました。
「巨視的」か「微視的」かですね。大きく広く観るか、顕微鏡のように細かく観て判断するか、でしょうか。
人間って、先ず自らの近くから観たり聴いたりし始めます。
そして徐々に目線を拡げていき、最後には宇宙から捉えた「我」と「他」を観る。それが歴史でしょうね。
「KY」というのが流行ったことがありました。「空気を読めない(人)」って事ですよね。
「自己中」な人として「困った人だ」との隠語だったでしょうか。
人間ってどんなに立派な人、賢人として知られていた方でもまだまだ所詮「自己中」だと思うのですが如何でしょう。
「ミクロ(微視的)」に観ることは必要です。しかしそこに留まっていては全体は見えません。
国のトップだからといって「偉い!」というわけでは無いでしょう。
どういった目線で観て、大きく巨視的にまで拡げられるか、それが問われます。
そこをクリアーしてこそ「偉人」となるのでしょうね。

 世界が少し曲がってきているように私には思えてなりません。
他から観れば私も「自己中」でしょうか。しかし今行われ、また行われようとしていることを理解することができません。
一方通行では無く、双方向での議論を交わしての結果を知りたいです。

 



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