八重山毎日新聞社コラム
石垣島の大好きな人がまた亡くなりました。
【掲載:2023/08/03(木曜日)】
やいま千思万想(第244回)
「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一
石垣島の大好きな人がまた亡くなりました
今月27日の本紙で知りました。
石垣へ行き、この島が好きになったのはやはり自然の魅力と文化への興味からでしょう。
ダイビングから始めたとは言え、行き着くところは「人」でした。その「人」に会いたいと通ったのでした。
「人」との付き合いは長ければ長いほど難しいです。
このコラムでも再三その事について書いてきましたがまさかその〈難しさ〉と〈人間の哀しいすれ違いの想い〉を経験することになろうとは。
人間、「死」がいつか訪れるのだと解っていても、それが早く来ることがないようにと毎日のように(いや、毎日です!)忘れることなく祈り、考え続けてきました。
若い時から「死」は私にとって身近な問題でした。怖いと思ったことがありません。
「死」とは何か?他人が言う「あの世」、次なる世界があるのか?それを解くのは生きている者の思考です。
死んだ者の証言ではないのです。では何故人間は死後のことを考えるのか?
私に限って言えば「死」はいつも変わらずに寄り添ってくれる「生きる証し」としての認識でした。
友の死、今回の知らせも「来ましたか」という一見冷たい私の応え。
会いたかったですね。コミュニケーションが大切だと人には言っておいて、彼とはタイミングを外したまま時が過ぎ去ってしまっていました。
欠けていたことがあるとすれば、今月も他紙に書いたのですが、まさに「聴く」こと。その難しさです。
「聴き合う」こと、食らい付いてでもそれを伝えたかったと後悔する私が居ます。
遠く離れた大阪から、行きたい気持ちを抑えて(理由はもう少し石垣島の行き先を見定めたいとの思いからの躊躇です)、
亡くなったその「人」を忘れることなどできない時の流れを、今、大切に頭に刻み込む毎日を生きています。
亡くなる直前、23日(日)に大阪で演奏会(「大阪コレギウム・ムジクム」第127回大阪定期公演)がありました。
全て「死を悼む曲」ばかり。
〈虫の知らせ〉だと思う人もいるでしょうが、演奏に向かっての練習時では演奏にあたって「死」の不安や悲しみなどはありません。
私には〈死ぬ〉と〈生きる〉は同じです。
演奏した曲は作曲家にとって全て〈親しい人の死〉の関わりから生まれた〈生きた音楽〉です。
演奏会ではその演奏中には亡くなった石垣の彼の「顔」が脳裏にしっかりと出てきていました。
彼は療養中だったのですね。しかし、脳裏に浮かぶのは彼の笑顔であり、人間であるが故の彼の「人となり」への思いです。
演奏しながら気持ちが高まり、涙が溢れるほどの指揮でした。
それは確かに何かの〈知らせ〉だったかもしれません。
人が死んで残るものは「人」への想い。受け繋がれるのは「人格」でしょう。
お墓が無くても良い、「集まり」も無くて良い、宗教的な「送り」もなくて良い。
一人一人がいつも「想い」、それぞれの中に「存在」していれば、それこそ亡くなった人との深い絆、「共に生きる」そのものです。
彼は私の中に生きています!