八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.252


【掲載:2023/12/07(木曜日)】

やいま千思万想(第252回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一

「寂しさ」は「孤独」か?「絶望」は「孤高」に繋がるか?

 芸術と政治は深く結びついています。
「芸術家は政治に口を出すな」という雰囲気が我が国にあるのを感じたのは演奏活動を始めてから直ぐでした。
何となく周りの空気が「避けている」ように感じたのですね。
しかし、人間として何かを表現すると言うことは生活に密着している政治的な感覚を無視しては成り立ちません。
欧米では真っ先に芸術家や映画俳優、芸能人が現体制に対して意見を放ちます。
それを待っていましたとばかり歓迎して注視する国民性はやはり真の民主主義を作ってきた人たちの自然な思いなのでしょうね。

 我が国でも以前は、自らの作品と忠実に向き合っている人たちが発言をしてきたことを知っています。
私は同じ思いの意見でも、考え方が異なる意見であったとしても「当然あるべき姿」としてそれらを見聞きしてきました。
しかし「自己保身」のためではないと思うのですが、何やら「巻き込まれたくない」というか「攻撃の的にされたくない」との思いなのか、
黙り込んでしまったり、体制側に入って「無批判」を通すか、
あるいは「日和見(ひよりみ)主義」に走る方達が多く増えたように感じています。(特にこの10年ほどの間に)
日々音楽を通して社会と向き合って活動する私にとっては「寂しさ」を感じてしまう動向でした。

 芸術とは常に体制側の反対に位置するもの、と思う私です。
「批判の眼」を持たない作品(演奏)は魅力を放ちません。
「チクリ(人の心を刺激すること)」と刺して来るものが人の心を動かす、つまり感動に繋がると思うのです。
それは生真面目な作品であろうが、笑いの世界であろうが、です。

 「寂しさ・虚しさ」は「孤独」に繋がるのか?と自分に問いかけます。
日々「孤独」を感じる私、しかしそれは「絶望」に繋がるわけでないことは解っています。
「絶望」ではなく、「孤独」の先は「孤高」ではないか?です。

 「孤高」とは、『個人の社会的な態度を表し、ある種の信念や美学に基づいて、集団に属さず他者と離れても超然としていること。
一人かけ離れて、高い理想をもつこと。』と理解。
私は「孤高」でありたいと真に思いますね。

 今さらなのですが、「保守」とは何なのか?
ある解説に『伝統・習慣・制度・考え方を維持し、社会的もしくは政治的な改革・革命・革新に反対する思想のこと。
過激な傾向を拒否し、穏健な立場を奉ずる人物・勢力・政党は保守主義者と呼ぶ。』とありました。
私は「保守」ですね。
最近とみにそれを自覚するようになりました。

 しかし、解説部分の「伝統・習慣・制度・考え方を維持し」には実は抵抗を覚えます。
良い伝統や制度、考え方は維持するべきですが、そうではないものには改革、革新は必要だと考えるのですね。
後半の解説「過激な傾向を拒否し、穏健な立場を奉ずる人物・勢力・政党は保守主義者と呼ぶ。」という解説には概ね納得です。
(「奉ずる」は少し・・・・・・)その立場で私は「保守」だと自称します。
「寂しさ」から「孤高」の思い、心の平安へと、です。





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