八重山毎日新聞社コラム
動物は強いものが残り、弱者は強さに惹かれ。
【掲載:2024/03/28(木曜日)】
やいま千思万想(第259回)
「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一
弱肉強食、人間社会では止めどなく悪化していく
強者に弱者が〈かしずく〉(強者につかえて、うやうやしく世話をする)。
そういった関係になりますね。いくら〈平等に〉と言ってもその意味はそんなに単純なものではなく、
複雑に絡み合っていて、一概に〈平等に〉が納得できるものでも無さそう。
もともと人類は〈共産〉の社会ですね(決して〈共産主義〉という意味ではありません)。
狩猟で取ってきた獲物だって、自然の木々に育つ木実や果実だって、農作での収穫物であっても、
仲間として共有していたからこそ人類は存続できてきた訳です。
いつしか貯めることを知った人間が現れて、その時代から〈差〉が生まれてきた。
巧くモノを手にいれた者が周りと共有したくなくなった、これ想像できますよね。
しかし自分が得たものだけで満足、とはいかないのが人間。他人のモノが欲しくなる。
そこで物々交換という形で満足を得るようになる。
この知恵をもって互いがバランスを取れるようになった、諍(いさか)いを避けることになった。
更に人間が増え、知らない人も増えてくる。モノとモノとを交換するのに代価が生じる。
さてさて、ここに来て本格的な〈争い〉が生まれる環境が整う。
人の物を盗む、力尽くで奪う、そのために殺傷に及ぶこともある。
「喧嘩」という〈いさかい〉が闘う「闘争」になり、最後には戦い、すなわち「戦争」となる。
もうここに至っては「共産」は成り立たない、あり得ない、そんな発想はなくなっている。
「博愛」の思いはあってもそのことを説き、実践しても、現代のような時代には根本的な解決への道とはならない。
「〈平等に〉なんて何処にある?
そこには〈強者〉と〈弱者〉が居るだけ。」「もう原点に戻る必要はない。
より強い者がもっと強くなって弱者を抑え込むしかない。これの何が変なのか?当然ではないか。」
「得られない者は自分で得て解決せよ。それが自己責任というものだ」。
「人を頼るな。甘えるな。自分でなんとかしろ」という文言がそこかしこに出回る。
「他人の事情なんて知ったことではない。そんなこといちいち考えてはいられない。想像するのも面倒だ。
自分のことで忙しい、弱い者はなんとでもなれ!」。
こんなこと書くの、疲れますね。でも、現代ってこういうものではないかと思ってしまいます。
さすがに人類ではもう「共産」は無い。
でも人類の成り立ちは、原始の時代は「共産」から始まったのではないか、と想像すれば現在の人類の〈行き過ぎ〉は押さえるべきもの。
常にその仕組を頭の片隅に置いておかなくてはいけないのではないか、と思う私です。
人類が感じる喜び、生きている幸福。それは共に湧き上がる「感動」に有る。その心情の中にある。
「感動」の中にあっては「強者と弱者の争い」など吹っ飛んでいるはず。
「感動」の共感があれば、蔑(さげす)みを生む〈差〉なんて生まれない。
「感動」を求めましょう。共有しましょう。
そこに真の〈平等〉がある。