八重山毎日新聞社コラム
「愛」が叫ばれています。「愛」という言葉、文学ではよく見かけるのですが、
【掲載:2024/05/23(木曜日)】
やいま千思万想(第263回)
「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一
もっと「愛」を叫びましょう。「愛」を叫び続けましょう!
日常会話としてはあまり語られることのない言葉だったと思うのですが、今ではよく聞かれます。
使われなかったのは「愛」という言葉の意味が限定されていたからではないかと。
「愛」の概念がなかったからでしょう。
現代では恋人同士では使われている、と想像します。しかし、夫婦間では頻繁に使われているでしょうか。
特に年代が上がれば皆無ではないか、と想像します。
キリスト教からの訳語から発したとも言われていますが
(キリスト教では神が自らを犠牲にして、人間をあまねく限りなく慈しむことの意味)、
以前の日本人には何か気恥ずかしさ、違和感を伴う言葉。
もっとはっきり言えば男女間の「恋愛・求愛」の隠語的な意味合いを含めるものと想像させ、人前では憚られる、ためらいがあったのではないかと。
これは私の偏見でしょうか。
しかし、今では本来的というか、もっと意味が広がり、いつくしみ、思いやり、大切にする、人間愛的な意味も含められての使われ方です。
現代では「愛」という言葉は市民権を得、ドラマでこの言葉が聴かれない日はないのでは、と思うほど頻繁に語られています。私もやっと人前で「愛」と言う言葉を使えるようになりました。
しかし、どうしてこんなに「愛」という言葉が横行し、使われるようになったのでしょう。
何処(どこ)も彼処(かしこ)も愛を求めて叫び、ささやかれている。
これは、それだけ不幸が多いせいではないか、そう思ってしまいます。
日本人が旧態依然とした環境から、自然と心の中に湧いた感情に抗うものとして「愛」に気づき辿り着いたように私は捉えます。
沢山の手枷足枷が一時代前にありました。いや、それはこの現代にもまだ居残っているのですが。
特に弱者と言われる人にとってはとても息苦しく、命さえ脅かされる圧力として残っています。
この国、まだまだ「男社会」ですね。社会機構はやはり女性にとって、男性に比べて不利に働いている。
男尊女卑の伝統が脈々と社会の底に流れている。政治家も会社役員も誰もが一様にこの是正をと言うのですが、簡単な事ではありません。
この民族性、社会に蔓延(はびこ)ってしまっている根っこの問題を変える程には覚悟も、熱意も当人には足りません。
事実、口だけの「リップサービス」に終わっています。
これまでの日本を顧みれば解ります。
大事だと思える相手には「愛」を告げましょう。
恋人同士は常に「愛」の言葉とその思いを通い合わせましょう。
尊敬する人には「愛」を通して敬意の行動を取りましょう。
年の差、性別の差、人種の差、障害者の差。これらは個人の好みや偏見から生まれています。
「人種・民族・宗教・文化・能力・病人・階級と職業、学歴」あげればキリがないぐらい差別の項目が増えそうです。
「人間は欲深い」「人間は交戦的」「人間は薄情」だと決めつけないで、
諦めないで、人々との付き合いを「愛」を通して密にしていきませんか。