八重山毎日新聞社コラム
「口の立つやつが勝つってことでいいのか」頭木(かしらぎ)弘樹著、を読みました。面白かったです。
【掲載:2024/08/01(木曜日)】
やいま千思万想(第268回)
「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一
「口の立つやつが勝つってことでいいのか」に胸がずきずき痛みます
題名通りのことを思っていたこともあって手にしたのですが、意外にも著者の論が広がりをみせていて、
それもそこそこ本音で語っている。文章が読みやすい短さで、すいすいと読んでいけます。
子どもの頃は恥ずかしがり屋で無口だった私。
「内弁慶なのよ」と母には人に紹介されていた私としてはちょっと不満。
たしかに家の中ではよく喋り、気の強いところも見せていただけにそう言われるのもしかたがないのですが、
私的には少し異なっていたんですね。子どもの頃から〈人の顔色〉を見る、つまり〈人を読む〉んですね。
かってに人物像を描くわけです。
それが結構、後から当たっているのが分かって、自分には〈人を見る目〉があるんだと偉そうにしていたものです。
自分の中で凄く頭を回転させ、言葉を探し、思いを巡らせている。
頭が忙しい、超忙しい!で、疲れる。の繰り返しだったんですね。
いつしか人を選んで喋るようになった時、意見の対立が起こればそれこそ〈口が立ってしまう〉わけです。
何時間でも喋ろうとする。相手はそのうち黙り込んでしまう。
その結果、理路整然としていつも勝ってしまう私。いけ好かない奴です。
中には口では勝てないので喋りが止まらない私に向かって殴りかかってきた者もいて、
いつしか「気をつけなければ」と思うようになりました。
どうも私、相手を追い込んでしまうようなんですね。
その事に気が付いた頃から(高校生の時でしょうか)、子どもの頃の無口、寡黙な人間へと戻ったようです。
〈追い込んでいく〉という反省もあったと思うのですが、顕著に「言葉が出て来なくなった」ことがあります。
それがきっかけです。自分の中での「言葉探し」に時間が掛かってしまうのです。
適切な言葉を選(え)りすぐろうとするのですね。
直ぐに頭に浮かぶ言葉では「何かが違う」と思い、あれでもなく、これでもなく、地球を数回まわってでも、
気持ちに寄り添った言葉に出会おうとする。その時間が長い。
その「間(ま)」で相手は勝ったと思うのでしょうね。そんな時私は論争を諦めてしまう。
それは「負けてはいないからまぁいいか」となるんですね。ちょっとそんな時が長かったようです。
で現在はと言えば、年も取ってしまったからでしょうか、開き直って「諦め」はやめます。
黙るとき、「言葉を探しているから」と説明し、待って貰って、相手には勢いづかせないようにして、論を進めるでしょう。
当然、入れ替わればその逆にしましょう。
その際、こちら側も相手側も、著書にある〈ためらいを持って〉となります。
〈ためらい〉とは謙虚、遠慮、抑制、です。事情を推し量って、も付け加えましょうか。
「口の立たない奴」にこそ、その〈ためらい〉を持って対しましょうということです。
先の著書に戻りますが、要は「口の立つやつが勝つってことでいいのか」じゃぁないですね。
「勝つ」より「負ける」の意味が大きくて深いです。