八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.269


【掲載:2024/08/29(木曜日)】

やいま千思万想(第269回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一

忘れる、有った事を無かったことにする国民性

 責任者は誰?
何か問題が起こった場合誰がどのように責任を取るのか?
我が国では一応誰が責任者かは書かれているのですが、明確化されているイメージは少ない。
何か起これば「とかげの尻尾切り」が普通に行われていることが多いように思う。
我が国では「責任は誰も取らない」というのが普通になっているようです。
これでは反省はしない。反省を生かして、ということにはなりません。
「責任」というのは重いです。

 先日、かつて石垣島に居た知人を訪ねました。色々と話をしている時、自衛隊の話になりました。
彼も私も自衛隊に対しては否定的ではありません(ただし、私は以前の自衛隊はとしておきます)。
彼は自衛隊は住民を助けてくれるのだから配置は必要とのこと。私はそれに対しては懐疑的。
確かに災害があれば近くに自衛隊があれば心強いでしょう。
しかし、あのミサイル配備を隠して基地を作ったわけですし、もし後ろめたさがなければ、
堂々と議論をしてミサイル基地が必要であるとの同意を得る努力をするべきで、
現在でも公に知らされずに事がどんどん運んで行っているように思え(今も一部の人たちが画策中との情報も)、
自衛隊を動かす現政府やその責任の所在に信頼を置けなので懸念している旨を話しました。
それ以上は多分平行線を辿る気がして、時間がなかった事もあり話はそこまで。
それにしても、皆さん「良い人」というか、情報が偏っているように見えます。
歴史に学ぶということには無頓着ですね。
誰もが諍(いさか)いのない、もっと言えば人殺しのない生活(殺されることのない生活)を求めているはずですよね。
しかし意見の食い違いは、いわゆる「平和」を求めてはいないせいなのでしょうか。
彼も、そして多くの日本人も実直に生活をされている。
真面目にコツコツと。戦争なんて考えてはいない人たち。自身の生活にだけ目を向けている。
もちろん生活するだけでも大変。そこに地域での「繋がり」も考える必要がある。
経済とは人と人との関係で豊かになるのですからね。

 どの線が意見のボーダーラインなのでしょうか。いつもその事に悩みます。
もし仮に敵がいて殺されるという事態になれば、私だって銃を持つでしょう。
しかしその事態に遭遇しても、敵だとする人も人の子。憎しみだけで、任務だけで人殺しをするだろうかときっと私は思ってしまいます。
引き金を引く責任は重い。重すぎる。だから「死ねるか?」の問いではなく、殺し合う事態を避ける努力をする。
戦争しないように叡知を注いで避ける道を探る。
それは困難な事です。無責任に「日本人であれ、進んで命をかけよ」と言う方が簡単でしょう。
必勝しか考えてないわけですから。煽動する人は自らは兵隊にならず、鼓舞するだけ。
しかし、過去には敗戦があったわけです。必勝とはならなかった。
無責任な人は生き延び、若者が死を選んだ。
 戦前には戦争には負けるという意見があっにもかかわらず我が国は戦争を選んだ。
その教訓は何処へ。
歴史を辿りましょう!





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