八重山毎日新聞社コラム
最近は、少なくまた限定的(仕事)になってきている妻との会話なのですが、二人で顔を見合わせてよく出て来る言葉があります。
【掲載:2025/02/13(木曜日)】
やいま千思万想(第279回)
「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一
「美しいとは何か?」を自分自身に問い、再考します
テレビのドラマを並んで観ながら「顔の見分けができないよね」です。
出演しているタレント・俳優がどうしても同じに見えてしまうのです。男女とも、美しい。しかし皆同じに見える。
ドラマの内容そっちのけで、「どうして判らないのだろう」と悩みます。
良く見れば、それぞれに個性があって違いもあるのでしょうが、顔かたちがよく似ている。
顔が小さく、スタイルも良い。派手ではない化粧。
ファッションも「今風」なのでしょう。センスが有ってオシャレです。
でも皆、同じに見える!妻とは「年取ったからかなぁ」なんて交わします。
その時必ず「私は年取っていませんよっ」と妻は反撃してきます。
私と四つしか違わないのに、です。なんか可愛いなぁと思って聞いています。
昔の俳優はもっと個性的に見えていました。
そんな人たちが沢山居ました。
丸顔の顔、平べったい顔、大きな頭、ずんぐりな背格好。超個性的な人たちが並んでいました。
見て直ぐ、それぞれの個性、そしてチャーミングな面を感じる事ができ、幸せな気持ちになったものです。
しかし、最近は一目では判らない。細かに観察しないと判別が困難です。
そこで「美」について考えてしまう私。
人間って美しさに惹かれますよね。流行であっても、そこに「美」を感じなければ、真似ようとも見習いたいとも思わないのでは。
美を感じるからこそ同じで有りたい、有って欲しいと思い、願う。
これは道理です。ということで皆が同じように成って似ていく。
しかしこれって、個性的であることを避けているのでは?
個性は美ではない?皆同じ美的感覚なの?個性は大事と思いながら、見た目は画一的?「皆、同じ美をなぞる」ということ?
では「美しいとは何か?」を、再考する私です。
『「美」とは永遠なるもの。瞬時(刹那)でなく、いつの時代にあっても人間が共通に「美」と意識できるもの。
それは稀少価値の高い絶対の真実であること』これを若い時に学びました。
しかし、これは相当西洋キリスト教的価値観ですね。
『「真実」というのは人の数だけある』と私は思います。
一つの価値観を絶対化することなく各々の「美」を感じる事が大切。
それが「真の美」を更に深める事に繋がり、人間同士が深く結び合っていけるもの。
それが「美」であると、そして「芸術」の骨幹でもある!との思いに到りました。
画一的にならない人生をと私は道を歩きます。「個性」が繋がる人生でありたいと願う道です
。
それは「超個性的」であれ!と言うことでもありますね。
個性的でなければ実は「画一的なもの」は見えません。
「画一的」な人々の中に居ては自らを見ることが出来ないからです。
もし、殻をかぶっているならば破りましょうか。
破った自分が「美しく」映るならば、きっと光り輝いて周りも照らすことでしょう。
ということで、俳優を識別できるよう、細かな部分まで観えるよう私を磨きます。