八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.292


【掲載:2025/09/25 (木曜日)】

やいま千思万想(第292回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者  當間修一

【時代を超える「譬(たと)え話」を是非したいです】

 人は他人に良い人を求める。真面目さ、勤勉さを強いる。自分を棚に上げて他人に求める。
求めること自体何も悪くは無いし、文句を言われる筋合いは無い。言った方が良いかも知れないですね。
ただ、求められる者から見れば聴ける場合もあれば聴けない場合もある。言ってくる人に聴けるだけの人望がなければならないわけです。その人が周りから認められていなければならないわけです。
そうでないなら誰も耳を貸さないでしょうね。
求める人は強いる前に、求める前に、先ず自分自身がそういう人になれば良いのですね。
 歳を取るとこんなシーンに出会うことが多くなりました。つい小言のように言ってしまうのですね。
昔はこうであったとか、あの時代は良かったとか・・・・・・。しかし、それが共有できる年代の人だと良いのですが、若い人にはそれは通じません。言われている事が既に過去の歴史の中で起こっている事だからですね。ですから共有することは難しい!話は噛み合わない!となります。
歴史という長いスパン(幅)で考えるとどんどんと共有できないことの度合いが大きくなります。
解釈も違ってくるし、思いのすれ違いも深く離れていくことが多くなる。歴史というものはその時代を考慮して語らなくてはならない。その時代を知って、解って、語らなくてはならない。でなければ使われている言葉も意味が変わってきて現代には通じない、あるいは間違った用い方もしてしまう。
ではどうすれば良いのでしょうね。歳を取るとその悩みが深刻化するのですね。
 時代を超える「譬(たと)え話」をすれば良いのかも知れないですね。
そうすれば事柄を共有できるかも知れない。昔の賢人はこの事に長けている人が多くいたように思います。世界三大宗教の一つ、キリスト教のイエス・キリストと呼ばれた人もそうでした。見事な譬え話で人々に訴えていった。だからこそ聴く人たちは自分の事として真剣に対応することができた。ただ権力者の横暴に対して弱者にその譬え話を用いたので、イエスという人は権力者によって最後には死刑、そして連れ添っていた弟子たちからも、慕ってついてきた多くの人々からも孤立していくという短い人生となったのですね。他の宗教の教祖とは違った亡くなり方をしています。
 ちょっと横道に入りましたか。元にもどりましょう。「譬え話」とはそれほどに人の心に入り込んでしまうのですね。効果抜群です。しかし、それを使うには本当に才能が必要だと痛感しています。
なかなか使えるものではないですね。評判の著述家、小説家と言われる人はそれが上手いのでしょう。羨ましい!
譬え話ではないのですが次の言葉に私は胸を打たれます。「どうか今のご生活を大切にお護り下さい、上のそらでなしに、しっかり落ちついて、一時の感激や興奮を避け、楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないものは、苦しんで生きて行きましょう」。私には綴られた時代と現代とが強烈に結ばれます。この言葉、宮澤賢治、最後の手紙の一節です。





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