八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.301


【掲載:2026/03/05 (木曜日)】

やいま千思万想(第301回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者  當間修一

【「人の命が奪われている」と何故最初に言わないのか】

誰も咎(とが)めることができない大統領が居る国が、他国を攻撃した。そのことに対してメディアでのコメント人は「それは良くないことだ」と遠慮がちに、または周りに気配りしながら。はっきりと「国際法を無視した爆撃、人を殺したことは良くない」と言わないのは何故なのでしょうか。(全国紙がこぞって批判しているようで私は少し胸を撫で下ろすのですが)
はっきりと言わないことで、責任逃れ、曖昧な言葉で一時を凌ぎ、事が過ぎ去るのを待つ、という態度で本質を誤魔化そうとしているように映る。虚しさを感じます。そういった事では何が正しいかを議論することができないと思うのですが。
そういった人が誤魔化す方法として使う論法は皆同じ。敵を作り、恐怖を煽(あお)り、戦い方に目を向けさせる。防衛を語るにしろ、戦いを前提として論じる。相手方の指導者を一方的に誹謗して嫌悪感を抱かせる。戦争をも致し方なしと戦いを肯定的に語り、その不安、不利益事項を探し出し列挙する。
しかし、そういった事を言う前に、「人が亡くなった。殺された」との批判を先に言うべきでしょう、と私は強く思う。住民が、市民が巻き込まれた。子どもの命を断った、絶たれた。そして一方、攻撃側はその計画で兵士が何人犠牲になるだろうとの告知もする。そんな文言には吐き気がするほどの違和感を私は覚える。「命が奪われている!殺している!」、このことを何よりも重く語らなければ、いつまで経っても殺戮が無くならない。「命の尊さ」は人間共通の基本でしょう。これを崩せば、世界崩壊は目前に迫ってくる。世界中がこの〈負の連鎖〉に陥っているように見えますが、命が奪われることに麻痺しているのでしょうか。日常化して身近に捉える想像力が薄くなり、関心を持てなくなっているのでしょうか。
「人は人を殺してはならない」を私は今一度胸に刻み込みます。
ジワジワと締め付けられていく胸の痛さは何とも言えず不快です。そんな時、我が身を守るかのように思い出す事があります。浮かんで来るのは我が国の明るかった日々。朗らかに笑い合う友達との笑顔です。そんな時代の思い出が私を支えています。野球は面白かったですね。キャッチャーを務めていた時のミットにボールが入る瞬間ってなんと気持ち良かったか!地上で見ていた時と木登りで見た風景の違いに感動。川での泳ぎで手で触れた植物や魚達。音楽が日々の楽しみとなった時の仲間たちの会話。誤解と和解を繰り返した。喧嘩もして体でぶつかり、その後に温かい触れ合いもした。事を成し遂げたときの仲間との涙。どれを思い出しても残っているのはその時の笑顔です。明日が信じられる時代を私は生きてきたのです。戦後50年は未来を語り、見えていた時代でした。その時代に私は確かに生きていた。近年は世界に広がる風潮に影響されての事かと思わされる我が国ですが、まだ希望がある時代だと私は考えましょう。陽光が眩しい!夕焼けが地球の奇蹟を示す。瞬間に生きること、悔いのない生き方を続けます。





戻る戻る ホームホーム 次へ次へ