八重山毎日新聞社コラム
タイトルに書いた「怒り」はその原因や方向によって意味は異なります。いま世界を混沌とさせているイランとイスラエル問題がそうです。
【掲載:2026/04/16 (木曜日)】
やいま千思万想(第304回)
「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 當間修一
【「怒り」は愛 その怒りは「生きる」の礎】
これには根深い民族・宗教問題が横たわっていて「怒り」は「復讐」「報復」と絡んでいます。だから解決は困難です。
出口は簡単には見つからないでしょう。人間が持つ闇の部分です。
ここでは戦争状態に至った経緯(入り口)をしっかり押さえておくことが重要でしょう。
紀元前からの歴史の重荷はその後の歴史を重ねても軽くなる事はなかった。今後も続くでしょう。心が痛みます。
わが国が抱える近隣諸国との関係も似ているようで、「民族・宗教」の意味では異なります。
西洋と一緒には語ることができないですね。根源的なことがそもそも違います。
私がここで言う意味での「怒り」は、「復讐・報復」の応酬ではなく、圧制や理不尽によって生じる強者の弱者に対する「しうち」「取扱い」「事象」に対するものです。
わが国では「怒り」は良くないとおっしゃる方が多いです。反対に寛容を求める風潮があります。その際、「慎(つつし)み」を勧められます。
しかし、これって「権威」には逆らわないようにという甘言だといつしか私は思うようになりました。
強者には知恵者が多いです。強者に成るために手段を選ばず知恵を働かせます。いわゆる「狡猾」です。逆に、弱者は暢気な人が多い。「お人好し」です。
強者は勉強します。弱者は勉強が余り好きでは無い。まぁ、勉強を何のためにするかという問題なのですが、強者は権力者に成りたいために〈最大限の勉強〉をします。弱者に成る人は強者に成りたいと思わないので〈最低限する〉に抑えます。
この違いは一般社会という場に移ると大きく待遇や、周りからの視線が変わります。
いやはやここに至って「勉強」の真意が問われます。真の「知恵者と成る勉強」が望まれるところです。
「怒り」は「愛」からの最も強い表現だと思う私です。人を思いやる(尊重する)、自分にも思いやる(大切にする)。
その事を阻むものが有れば「怒り」を覚えてこその思いやり、愛です。だからこそ実践にも移せます。
人の思いや行動を押さえようとする強者(権力を持つ者)からの如何なる圧力も有ってはなりません、受けてはならない、と私は思っています。
自身の「生きる」ことに誇りを持つならば、他の人の誇りをも尊ぶべきものです。
一方的な圧力をかけることなど、特に権力を持った者が弱者に対して圧力を行使するなど、弱者は「怒り」を持って臨むべきもの、構えるべきものです。
「生きる」を阻止する戦争は絶対に起こしてはなりません。
人を殺す行為は如何なる理由をもってしても有ってはなりません。
人が亡くなるということは「自然」が関わってこその生命の終止点です。
人が人を殺す理由などありません。「人の為の戦争」というものは無いのです。「人の為」との甘言に揺らいではなりません。
そこにはまた強者の圧制と従者としての弱者が居るだけです。
「怒り」を持って愛を貫きたいと思っています。