八重山毎日新聞社コラム
ある男が殺された。30を少し過ぎたばかりの男である。犯罪を犯したわけではない。迷惑、邪魔だから殺された。彼を慕っていた者の裏切りで計画的に殺された。彼を知る多くの人たちは彼を信じて生きることに意味を見出していた。しかし彼が理不尽にも殺されるとは思ってもいなかった。驚くべきことに、彼を信じ疑うことが無かった最も身近な人たちが彼を見捨てて逃げ去った。「貴方を信じ、どの様なことがあったとしても離れることはない」と言っていた人たちだ。自身の保身のために「言ったこと」を打ち消す。しかし、この出来事が裏切った者の心を苛むことになる。彼らは再び良心と共に保身の手立てとして集まり、殺された男を神として触れ回った。これはキリスト教の「イエス」の話です。
【掲載:2026/04/30 (木曜日)】
やいま千思万想(第305回)
「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 當間修一
【理不尽に死ぬこと無かれ!それに加担すること無かれ!】
このイエスを主とするキリスト教の信者は推計約23億人とされる。因みにその次に多いのはイスラム教の19億人だそうです。今話題のユダヤ教は約1,500万人。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は相互に歴史的・教義的関連が強く「三大宗教」と呼ばれることがあるのですが、もう一つ重要な宗教があります。それが「仏教」です。最近ではキリスト教・イスラム教・仏教を「三大宗教」と呼ぶそうです。
これらの宗祖と言えるキリスト教の「イエス」、イスラム教の「ムハンマド」、仏教の「釈迦(ゴータマ・シッダールタ)」の亡くなり方に違いがあります。イエスだけが殺されたのです。
ムハンマドも釈迦も病によって亡くなった。それもいわゆる「安らかな死」であったと伝えられています。
今一度書いておきましょう。キリスト教の「イエス」は殺された。その後に弟子たちが中心となって宗教を起こした。世界史の中でキリスト教が戦争へと関与したことがよく知られるところです。平和、愛を訴える人たちが争いを起こした歴史。しかし宗教の中心となった人は決して戦争、争いを良しとしなかった。公平・平和・和解を説いていたと私は思っています。その後に続いた人たちによって戦(いくさ)が始まっているのです。人間とは原始から深く殺戮から離れることができないのでしょう。
今回、私が演奏するのはヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750)の名曲「マタイ受難曲」です。イエスの磔刑(十字架刑)とそれによっての救いが物語れています。全曲3時間に及ぶ大曲、しかし一曲、一曲が実に巧妙に作られ、情景と心象が表現されて絵巻物のように展開していきます。弟子であるユダが裏切る。11人の弟子たちも逃げ去ってしまう。その中のペテロは尋問に対して「イエスなど知らない」と嘘をつき生き延びる。「ローマ・カトリック教会」の初代教皇はこのペテロ。キリスト教は「悔恨」の上に成り立った宗教だとも言えます。イエスが亡くなって約30年頃にイエスを再認識しようとの集合体が得た「生きる意味」です。
現代もこの理不尽が罷り通っていると思う私。二度と同じ過ちを繰り返さないと祈りながら演奏しようと思っています。