八重山日報コラム

「音楽旅歩き」No.27


【掲載:2014/03/30】

音楽旅歩き 第27回

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者  当間修一

[音楽の歴史の中、私は今どの位置にいるか(2)]

 「ドイツ」と言えば工業国、そして音楽の国ですね。工業ではメルセデス・ベンツ、ポルシェ、BMW、アウディ、フォルクスワーゲンなどの乗用車がその象徴的存在。
音楽では言わずと知れたJ.S.バッハ、ベートーヴェン。そしてそれに続くブラームス、ワーグナーといったところでしょうか。
 さて、車のことはここではさておき、音楽について少し歴史をたどります。
私の合唱団がその名を冠するドイツの作曲家、ハインリッヒ・シュッツの話をしたいのですね。
ドイツは音楽の先進国として18世紀後半以降同系国家であるオーストリアとともに音楽史において独占的ともいえる地位を築きました。
 しかしシュッツが活躍する以前のドイツは音楽の後進国。
当時の諸侯たちは先を争ってイタリアやフランスに音楽家たちを留学させ、自領地の文化政策での格付けに競い合っている時代だったのですね。

 シュッツも例に漏れず、君主の命でイタリアに留学します。
実力を付けて意気揚々と帰国したシュッツ。
その後次々と精力的に作品を産み出し自国の音楽に息吹を与えます。
 私が彼に惹かれる理由は、心の深部に迫ってくる音楽表現です。
音で喜怒哀楽を追求する「バロック時代」に突入しようとする激動の時に生きたシュッツは、彼の性格である律儀で真摯な要素を絡めてそれまでにない音楽の世界を築きあげます。
 作品が30年戦争(1618-1648)という悲惨な戦禍(全土は荒廃し、人口の三分の一が失われた)の影を落とす創作活動であったことも、それが「真に迫る」作品(心の底からの祈り)となった要因でしょう。
そこに私は強く惹かれました。
しかし音楽家を目指した私が最初からシュッツに出会ったわけではありません。
パイプオルガン奏者として、そして指揮者として私が目指したのはJ.S.バッハでした。
しかしバッハを真に理解するためにはドイツ音楽を初めから追究しなければ、と思ったわけです。そのことで知ったのがバッハの100年前に生まれた「ドイツ音楽の父」と称されるシュッツでした。

 ドイツ音楽の根っこから勉強したいと思ったのですね。
我が国の教育界ではその時代の音楽はまだ未知の分野でした。
古典派やロマン派の音楽理論で始まる我が国の音楽教育ではそれ以前の音楽を教える場所がほとんどありませんでした。
その時代に私は私の合唱団に「シュッツ」の名を冠して活動を始めたのです。
ドイツの音楽の夜明けから始まった活動は結果として重要な視点を私にもたらしてくれたと感謝しています。
それは西洋音楽を一望することができる位置を与えられたからです。
全ての音楽の流れが見えるのですね。
ハインリッヒ・シュッツは1672年、ドイツのドレスデンで一生を閉じます。87年の生涯でした。
音楽三昧で小学6年生となった私。
まだパイプオルガンやバッハ、シュッツなど知る由も無い子供でした。
それがある時、それに繋がる道に入ることになります。
(この項続きます)





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