八重山日報コラム

「音楽旅歩き」No.101


【掲載:2017/07/30(日)】

音楽旅歩き 第101回

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者  当間修一

楽譜は「人」の歴史への旅

 私の職業である指揮者の仕事は「楽譜」を見ることです。
そして演奏会では自ら音や声を出さず、オーケストラや、合唱のメンバーに対してどのように演奏をしていくかを「示唆」することにあります。
音楽家としては不思議な職業です。
演奏者もそれぞれに楽譜を持っています。
指揮者と同じ出版社、編纂者が出している演奏者用の楽譜を見ながらステージに立ちます。
もう少し詳しくいうならば、全く同じ楽譜を持つこともありますが、一般的には指揮者が見るものと奏者が見るものとは異なっています。
奏者が持つものは、それぞれの奏者が演奏し易いように指揮者用の楽譜から抜き出されて編集されたものです(合唱譜とかパート譜と呼ばれています)。

 西洋音楽の歴史は「楽譜」の出現によって始まった、と言っていいでしょう。
もちろん、楽譜ができる以前にも人々の間では生活の場で、あるいは生きる「愉しみ」として音楽は存在しましたが、記号を作って紙に記し、何時でも、何処でも、誰にでも(記号を読めなければなりませんが)、後の時代にあっても再現が可能になったということでその重要さが際立っています。
それは人類にとって最も偉大な文化遺産のひとつとなりました。

 私は今、何冊かのスコア(指揮者用の楽譜)を持ち歩きます。
指揮者の仕事すなわち楽譜を見るとは、つくづく思うのですが、それは書かれた音を通して「歴史を観る」こと、「人の知恵」を識ることです。
だからこそ楽譜そのものの質、完成度などが大切な問題となります。
作曲家自身の自筆譜、あるいはそれをコピーしたファクシミリ版を見るのが一番良いのですが、一般的には写本(作曲家本人以外の人が写し取った版)であったり、現代では当たり前になっている印刷によった楽譜をみることになります。
楽譜はその正確さが重要であるにもかかわえらず、どのような版でも幾重にもわたって疑わなければならないことが起こります。
作曲家自身が間違えるケース、写し取った際のミスも要考慮ですね。
印刷譜では校正の段階でのミスもあるかもしれません。
そんな風に見ていくと、正確無比なものは存在しないと思った方が良いかもしれないと経験的に思います。
でも楽譜を見るのは楽しいし、面白いです。
それは「ミス」は人間がしてしまうものだからです。
ミスがどうして起こったのか、それを考えるのは楽しいです。
単純なミスもあれば、そう簡単にはミスと判断できないという場合も出てきます。
この工程ならばミスはある、あるいはミスはない、といったことや、携わった人たちの性格や音のつくり方を想像してみるのも楽しいです。
現代の印刷譜の粗(あら)さは、偉大な作曲家の自筆譜と比べてみれば一目瞭然です。
確かに、印刷譜には見やすさはあるのですが、演奏者として見れば完成度に不満を覚えることが多いです。
一番感じる事、それは音楽の核心である「息の流れ」が削がれていることですね。
そのあたりの事情を次回も書いてみようと思います。





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