八重山日報コラム

「音楽旅歩き」No.102


【掲載:2017/08/13(日)】

音楽旅歩き 第102回

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者  当間修一

楽譜は自筆譜によって演奏したいもの

 私は、毎日楽譜を見続けている仕事。
演奏会では自身では音を出さず、演奏のための指示を演奏者に出し、全体をまとめる「指揮者」という職業です。
楽譜から作曲家の想いを汲み取り、時代が要求する「解釈」を施すために徹底的に「楽譜を読む」作業が必要となるのですが、その楽譜というものが常にある問題をはらんでいます。
書いてある音符なり、記号が間違ってはいないか? ミスプリントなのか、それとも元から違っているのか?
それらを様々な方向から検討し、間違いではないかと思われる場合には、作曲家がご存命ならば直接お伺いして確かめ、もしそれが叶わない事ならば私自身の解釈によって読み取り、判断するということになります。
しかし、これは、作曲家自身の自筆譜ではなく、製版された楽譜でよく起こることなのですね。
現代ではほとんどがこの楽譜で、作曲家の手を離れ、その後専門的な技術者の手によって製版がなされて印刷譜として出版される楽譜にある問題です。
この出版譜の良いところは、見やすいということ。
整然と五線譜の上に並べられた音符で見やすく、そして何と言っても最大の功績は「大量に頒布」できるということでしょう。
しかしこの出版譜、どの曲も画一的になってしまうという欠点があります。

 一度作曲家自身が書いた「自筆譜」をみればそのことは一目瞭然です。
手書きの譜面の特徴は「音楽そのもの」を表すということでしょうか。どういうことかといえば、踊るような、喜ばしい音楽では音符が弾けているようにうねる筆跡ですし、沈んで、悲しいようなフレーズでは音の間隔が微妙に広がり、いかにもその間に「悲しみの想い」が詰まっている並びに見えます。
速い曲ならば勢いのある形になりますし、遅い曲ならば「ゆったりとした呼吸」が感じられる姿を見せます。
実に自筆譜とは、個性と、感情に溢れた楽譜です。
ただし、馴れないと見にくいということはありますが。
音楽の勉強をし始めた頃から手書きの譜面に馴れるようにしていれば良かったのですが、現代では製版された楽譜によって指導、そして演奏することが普通になってしまいました。残念なことだと私は思っています。

 楽譜は言ってみれば、音楽の「息の流れ」を表したものです。
心臓の動き、呼吸の振幅とその緩急が示されます。
人間の奥底に宿っている想い、感情は、表に出て来ようとするときこの「呼吸」によって表されます。
指揮者はその動きをいち早く奏者に示して、演奏者の感情に訴え、沿っていかなければなりません。迫る、同感、共感を得る、ということでしょうか。
指揮者って棒の動きが目立っていると思うのですが、実は棒より大きく演奏に関与するのは、体全体の動き、リズムですし、一番大切なのは目の動きです。
奏者に対して何を伝えようとするのか、それはやはり体を使っての人間と人間とのコミュニケーション能力なのですね。
自筆譜による演奏、その実践を推奨したい今日この頃です。





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