八重山日報コラム

「音楽旅歩き」No.132


【掲載:2019/2/03(月)】

音楽旅歩き 第132回

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者  当間修一

「経験」と「想像」とでは思考結果は異なる?

 『「経験」と「想像」とではその思考結果は異なるのだ!』と、思う私です。
「人」って経験によって知ったことは決して忘れる事も記憶も薄らいでいくこともありません。
ただ、辛いことに基づいての経験は忘れようと脳は努力する。
自分を、もう一度辛い目に遭わないように防御するらしい。しかし、意識下においては決してそれがなくなっているわけではないのですね。
人間はこの経験によって歴史を積み上げ、そして進化(であって欲しいと願いますが)してきました。
自身が、そして人々が経験によって感じたことこそ真実だと思う私です。

 「想像」されたものほど厄介な問題が含まれているものはありません。
頭(脳)の中での働きが色々とうごめきます。
脳が考えることの中には経験に依ったということもありましょうが、経験に依らないこと、敢えて言えば「事実」でない思考が挟(はさ)まっているかもしれないのです。
それは「真実」ではない可能性もあるということですね。
辛い思いをしないできた人は(自覚していないだけかもしれませんが)、辛さを持った人のことは解らないかもしれません。
逆に辛い思いを知った人は、辛さを持たない人の思いが理解できないかもしれません。
その間(はざま)に「想像」という互いを繋ぐことも可能な働きがあったとしても、上手く働かせることが出来なければこの両者の溝はそう簡単には埋まることはないように思います。

 過日(1月19日)、委嘱作品による初演の指揮を振りました。
作曲は現在合唱界で一二を争う人気作曲家。若い人たちがこぞって歌う作品を多く世に送っています。
その作曲家が書いたこの世に初めて産声をあげる「新作品」です。
少し前に知ったのですが、その作曲家のお母様はヒロシマで被爆。
ご自身は被爆二世。これまでにも幾つか彼の作品は演奏してきましたが、その度に鮮烈な音パワーと音楽的メッセージ性を感じたものです。
それこそが彼の作品の魅力であり、多くの合唱人の心を捉えて離さないのだと私は知るのですが、今回改めてその本質を再認識させられました。
〈戦争〉や〈被爆〉体験を持たない私にとって彼の思いを理解したとか理解出来る、とは言えません。
想像はできると思うのですが、しかしその想像もあくまでも私が思うところの疑似体験に依るもの。体験に基づく〈そのもの〉で有るはずがありません。
彼が書いた新作品が彼の想い描く演奏となるために、仲立する指揮者としてどのようなスタンスで学生と向き合い、作曲家の想いを伝えるのか?
それはとても難しい。不可能であると言ってもよいでしょう。
でもだからこそ音楽にとっての核心、無二の事柄であるような気がしてなりません。演奏が「真」と成り得るか、聴衆に対しても「感動」となるのか。
今、このコラムを書きながらその時の録音を聴いています。
終わりの大きな拍手を聴きながら涙です。
「想像」が「経験」と並んだ、そう思って良いのかどうか。
今しばらくその余韻を大事にしたいと思いました。





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