八重山日報コラム

「音楽旅歩き」No.136


【掲載:2019/4/16(火)】

音楽旅歩き 第136回

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者  当間修一

平和を求めて人は祈り、歩み続けるという・・・・・・しかし

 最近私が選んで演奏する曲は「レクイエム」(カトリック教会の死者のための鎮魂曲)に関連したものが多いです。
まぁこれまでも、歴史上(古代から現代まで)のそれらの曲を演奏することが多かったと思うのですが、
近ごろでは内容に伴った表現が更に色濃くなっていっているように思います。

 「レクイエム」とはそもそもカトリック教会で行われる典礼なのですが、様々な宗教での儀式、
または個人的な思いの発露として亡くなった人の魂に安息が訪れますようにと祈って執り行われることがあります。
カトリックの儀式にとらわれず自由に死者の魂を慰(なぐさ)め、鎮(しず)める。
その祈り、真摯な思いに包まれたいとの強い私自身の奥底の要求によるものと思われます。

 「平和」と言う言葉がそこかしこに溢れています。
人は「平和」を求め、その策を練る。ある時にはそのために「戦(いくさ)」も辞(じ)さない、となる。
実に、皮肉(物事が予想や期待に相違した結果)なことではあります。

  「死」を思うことが多くなりました。
これ、決してネガティヴ(暗く消極的)な意味で書いているのではありません。
人は例外なく生命の尽きる時がやってくるのですから、その時のためにもポジティヴ(明るく積極的)に生きようではないか、
とのことで発せられたのだと私は思っています。
私の歳になると(今年の6月で70歳〔古稀〕になります)周りで亡くなっていく人を見送ることが多くなりました。
特に私より若い人が亡くなると切なくて、哀しくて、時には腹立たしくて(居たたまれなくて)、憤って(思いが胸につかえて)しかたありません。
どうしてなのでしょうね。
人の命を思う時、それはその人の人生を思い、想像し、自分の事のように感じてしまうからでしょうか。
愛おしさゆえの憤りって言っていいですか。
「平和」を語るとき、戦争における殺戮(さつりく)、紛争で人を傷つけて流す血。人の尊厳を尊ばず心身を傷つける。
そのような意味合いを思い浮かべて私は使いません。
「平和」とはその底に、もっと奥深く有る、命の源(みなもと)ともなっている「心の平安」のこと。つまり「不安のない心」の状態を意味します。
「平和」を求める心がぶつかり合ってしまうことがあります。
それは決して互いが「不安なき心」を目的としていないかもしれません。
しかし求めるべきものは、今日も明日も、未来にも希望が持てる不安なき心。
鎮まった心持ち。その状態だと私は思っています。
亡くなった方々の魂が〈平安〉でありますように。この世に与えられなかった〈平安〉が「彼(か)の地」で与えられていますように。
生命を鼓舞する曲を演奏する。
それが私の使命だと信じて指揮をしてきました。
情熱をもって活き活きと、生きていることを謳歌(おうか)する。しかし、亡くなった方々の魂を想い、
哀しみながらもそれが片時かもしれないのですが、演奏の中では〈平安の中に居る〉大きな喜び、深い心地良さを与えられています。





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