八重山日報コラム

「音楽旅歩き」No.142


【掲載:2019/8/04(日)】

音楽旅歩き 第142回

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者  当間修一

自分の言葉で喋り、自分らしさで意見を述べることの大切さ

 言葉に真実があるかどうかは、その人が「自分の言葉」で喋っているかどうかで解ります。
立派なことを言う時も、ちょっと首をかしげるような品のない言葉や誹謗中傷的なことを言うときも。
それが喋っている当人の本当の言葉なら、どのような内容であっても耳を傾けるに値します。
聴き手側にとって困ってしまうのは、迷惑なのは、喋り手が本人の言葉で語っていない時です。
他人の説の受け売りであったり、本人が思考を重ねた結果としての言葉には未だなりきっていなかったり、思い込みが先走っていたり。

 旅をしていて、ホットする瞬間って人との会話の中にあることが多いです。
見知らぬ街で、見知らぬ人と喋る。そのお喋りが本物の語り手としての言葉なら、そして更にその人らしさを感じる表現ならばどれだけ心が満たされ嬉しく、また楽しくなることか。
喋りたくても喋ることができない人が居ます。
意見を言いたくても何かの要因故に言えなくなってしまっている人もいるでしょう。
それが病(やまい)であったとしても、また何らかの精神的な要因に依るものだとしても、
語ろうとする人の真の〈自分の言葉〉であるならば、そしてそのように感じられた言葉ならば、どのような手段をとっても聴き取りたいと思うでしょう。

 寂しい、あるいは恐ろしい、孤独な思いを助長するような〈沈黙〉を私は避けたいです。
沈黙は〈無視〉にもなります。本物ではない言葉による会話となれば、語る方も聴く方も、実は〈何の意味も無い言葉の羅列〉の遣り取りだということになります。
外国に行ったときなど、その国の言葉で喋れなくとも結構意思は通じるものです。
ところが何やかやと自分の言葉になりきっていない説明的な言葉が入り込んでくるといきなりコミュニケーションが取れなくなってしまいます。
そんな多くの経験をこれまでにしてきました。
言葉が解らなくともその伝えたいものが核心で本物なら、使う言語(国の言葉)が違っても確かに通じます。不思議なものです。
いつの間にか相手の言語の中に入っているような気持ちにさえなります。
残念ながら外国の言葉が通じたとしても、その文化特有の「思考の仕方」まで理解する、というところには至りませんが、その入り口には入ることができるかもしれません。
(入って良いものかどうかはまた別問題ですが)

 話を戻しましょう。
「自分の言葉で喋る」って難しいです。
頭に浮かび、描かれた言葉が自分のものかどうか、それを確かめることが問題になってきます。
で、ここでもう一つの大切なことが浮かび上がってきます。
それが「自分らしさ」ということでしょうか。思いを喋るのは自国語で良いではありませんか。
方言で良いではありませんか。
生活に即した言葉づかいであるのならばそれが一番良いではありませんか。
作られ、飾られ、実がなく、気持ちが伴わない、思考もされない言葉で終始することなく、
「らしさ」に溢れた会話がしたいと最近思うことしきりです。





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