八重山日報コラム

「音楽旅歩き」No.143


【掲載:2019/9/07(土)】

音楽旅歩き 第143回

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者  当間修一

自分の内なる声に耳をすまして、その声に従う

 今日の題名はある本からの受け売りです。
著述の内容に納得しましたし、私自身もその書かれた内容に添った行動をとってきたと思いますから、
その命題「自分の内なる声に耳を澄まして、その声に従う」をお借りしました。


 人間って何か判断せざるを得なくなったり、悩んだあげく幾つかの選択肢から進むべき方向の決定を迫られた時、
「内なる声」が聞こえてくるって事が間々(まま)あります。
人間の生きる力は相当に強いです。
「勘が働く」というのもよく聞かれますが、これもまた生きる術(すべ)としてより良い方向を示そうとする、
人が生きるための手段ではないかと思われます。
人間はそういった「感じ方」を持っているものだと私は思います。
ただ、その著者も述べているようにそれは、人から選択を迫られて「押しつけられた」ものでなく、
自身で全力を傾け、集中して考えた末に聞こえてくる「自身の声」のことだと思うのです。

 人間ってやっかいな生き物です。
その著者は「自愛」という言葉と「自己愛」と言う言葉を使ってそのやっかいな人間としての〈生き方〉を語り始めます。
「自愛」は「愛」を生み、「自己愛」からは「執着」が生じるというのです。これ〈言い得て妙〉です。
本の内容の詳述は避けますが、「自愛」とは、自らその身を大切にすることであり、「自己愛」とはナルシシズムと同じ、
自己陶酔、つまり「うぬぼれ」であると述べます。
「自愛」からは人間は「成長」を生みだすことが可能。
「自己愛」からは「不安」が生まれ、それを紛らわせるため、「うぬぼれ」を満足させるため、他人に執着してしまうというのです。
著者がこの本でテーマとしているのは「真の友人」を形成することの意義です。
人間は、利己的でなく、互いに尊重し合う関係の「真の友人」を得てこそ人間としての幸福を手にすることができるのだ、と強調します。

 「幸福」は「感じる」ことだ、とも書いています。これも気に入りました。《感じてこその幸福》。
言われ続け、聞かされ続け、書かれたものの実現(実は、それは押しつけられたもの)として辿り着いた幸福が、
実は喜びに溢れるものではなかった。
そうではなく、「幸福」と感じたところのモノが真の求めた「幸福」だったのだ!
音楽を生業として生きる私にとってこのフレーズは心に染み入ります。
楽譜の音を再現し、様々な表現に関する記号を読み解いたとしても、そこに「感じる心」がなければ音楽には成り得ない。
私自身の心の底から湧き上がる〈我が感じる〉声に呼応してこそ、そこに「音楽」は生まれる。

 いよいよ秋に入り、音楽シーズンがやってきました。
心と心が結ばれますように、真の友が呼応していきますように、音楽を紡いでいきたいと思います。

 急に話題は変わるのですが、もう一つ〈我が声〉が聞こえはじめてきています。
そろそろ「石垣島に行きませんか?」と。
忙しさや体調などの気遣いで飛んでいくことを躊躇せざるを得なかったのですが、「声」には忠実にですね。

*本は「生きる技法」安富歩 著 青灯社  





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