八重山日報コラム
まだ人間修行中の若い頃、友達や「大人」の人とよく喋りました。
【掲載:2023/12/03(日)】
音楽旅歩き 第225回
「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一
【「理想主義と実利主義」、その和合を考えます】
喋るというよりは「論争」とも取れるやり取り、でもそれは私の方が一方的に熱っぽく訴えていたことのようです。
その時、必ずといってよいほど相手から出てくる言葉がありました。それは「理想主義だね、當間くんは」でした。
当時はそれがどのような意味合いで言われているのかよく分かっていなかったと思います。
何やら私の考えを真剣に聴いてもらえていないという焦りみたいな感覚があって、またムキになって喋ろうとしていました。
「理想主義って何?」「なぜ?その言葉で片付けようとするの?」「それは幼い考えだから?」
「どのような意味を持っているの?その言葉を発するのは?」といつもモヤモヤの感覚が残っていたのを思い出します。
今もそれはずっと私の心の底を突いています。
「理想主義」の反語は何だろうと思えば、「実利主義」という言葉が浮かび上がります。
なるほど!と納得できますね。理想は〈すぐに利益には繋がらない〉、実利は〈いますぐに利益に繋がる〉と。
実利とは、今ここに美味しいものがあるとしましょう。それを取れば良い。
例えば「お金」が目の前に見えれば受け取る姿勢を示せば良い。ということでしょうか。
その「お金」はどこから出て、何が目的で、何をもたらすか、なんて考えないで直ぐに「利(儲け・得)」に走れば良い。
それが手っ取り早く〈私利私欲が満たされる〉ということでしょうか。
そうであるならば人間誰しも「実利主義」となってしまう可能性があります。
現代は大勢がそうであるように感じてしまっている私なのですが、皆さん、そうは思われません?
実利を得てしまえば、〈より得たい〉という欲のループ[輪。環。]が始まりそうです。
何の考えもなしに、ただ我が身のためだけの「利」、社会のためではないことに。
それは〈私利私欲〉と思われてしまいます。
「理想」、つまり〈何を求めて〉なのかを考えないで実利を早急に得る。
それは後悔することになるリスクがあると思うのです。
もし、それが仮に理想だけに終わってしまった場合を考えてみます。
それは、心を痛める後悔にはなりません。
ずっと追い求めて行けるという道が前に開けます。生きる道が見えるわけです。
結論を書きますね。本来あるべき満足できる道筋、考え方は、『理想を求める⇒その結果が「利」となる』、ですね。
「他」は「個」に繋がり、「個」は「他(社会)」に繋がる価値観を持ちたいと思う私。
この思いは修行中から変わってはいないようです。
世の中に起こる「問題」の多くは「個」から発生しているように思います。
「実利主義」一辺倒にならず、「理想主義」にも耳を傾ける。
その「個」が「理想主義と実利主義」に理解を示し、和合できるものであればいいのですが、
今世界中に起こっている禍(わざわい)はまさに真逆の「個」にあるのでは。どうでしょう。
「理想主義と実利主義」それを今一度考えてみたいですね。