八重山日報コラム
政界がうごめいている。我が国の総理大臣の発する言葉に慌てふためいている。
【掲載:2025-11-23 (日)】
音楽旅歩き 第261回
「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 當間修一
【命の軽視につながる言葉に「私」は含まれるのか?】
今回の「存立危機事態」の中で発せられた「戦艦」という言葉とそのイメージ。
しかし、その言葉は本音を表していることはこれまでの言動をみて間違いなさそうです。
それを「よく言ってくれた」と喜ぶ人もいれば、「困ったことをしてくれたものだ」と危ぶむ人もいる。
大勢の人が困惑している、と多くのメディアが毎日のように論じる。これまでになかった現象でしょう。
多くの国民から新しく誕生した総理大臣に期待が寄せられている、と世論調査は表す。そのことに危惧を唱える人もまた居る。その人たちは〈戦争に駆り立てる〉ことに繋がると感じるからでしょう。
根っこには独立国としてではなく米国に従属した形で事が進んでいるとみるからでしょう。最も強い者に寄り添う。まぁそれが安寧秩序だと信じている、あるいはその事に何故なんの疑問も持たないのだろう?と思うからでしょう。
日本と米国との間で不平等条約が交わされていると理解する人もだんだん増えては来ているようです。しかし戦後の歴史をみればそれに抗議することなどできる筈がないと諦め、いっその事、懐深く入る手段に転じた我が国です。お陰で戦後の復興は見事に成し遂げられました。しかし、その中で歪みが生まれたことも多くの人が知っている。いや体験している。
いまこそ、日本の底力を発揮すれば良い機会であったかもしれないのに、そこにきて国の長たる人が「危うい言葉」を発した。首相を応援する人たちの間からも残念に思った人が出てきたという事態でしょう。
相手が〈難もの〉ならば、それに応じた対応が必要。〈難もの〉を怒らせれば相当にこじれることは必至。大人の対応ではない、と嘆く人の気持ちが解ります。
ある人々が何故にあのように戦闘的な思いを持つのか、本当に私には解らない。恐怖を与える、時には殺傷に至ることなのに躊躇なしに突進する。それは自身は大丈夫だとの思い込みがあるせいかもしれない。
「命さえ厭(いと)わず」を他人に押し付ける。しかしそれはある意味〈自殺願望〉でもある。心身共に健康であればそのような考えは浮かばないと私は思うのだが、〈共に歩く〉のではなく〈自己完結〉的にまとめてしまう。そこには〈他の命〉の存在はない。
ただ思い当たる事が子どもの頃にあったのを思い出す。それは感情が高ぶって見境なしに突っ込んでいく行動。
方言に「イー!となる」という言葉があるのですが、これはヒステリックな状態の時に起こる物言いです。しかし、これは大人になるための貴重な経験。それを大人になっても表してしまうというのは自身は子どもである、を露見しているようなもの。命を相手にする思考は好戦的な子どもであってはならない。大人としての良識を持って対応すべきだとつくづく思う。一国の長たる者、「お茶のみ友達との会話」的な言動は余りにも情けない。国の繁栄から遠く隔たる思考であると私は思う。