つれづれ

AERA Mookのシリーズとして2000年に発売された「数学がわかる。」を久しぶりに読み返していたときのことです。

数学は自由な学問です。

微分方程式について一般向けに寄稿した岡本和夫氏*1の文章の最後の、"Column"が次の一文で始まっていました(p.53)。

数学は自由な学問です。

私の心の中に一陣の風が吹きました。
「数学の自由さ」を純粋に感じる、久しぶりの瞬間でした。

氏は続けます。

自由というのは、自分で考え自分で決め、自分の力で行って結果については自分が責任をとる、そのような状態をいう、と定義しています。

間髪入れずに定義を与える、これぞ数学者!
同時にここで必要な一言ですね、「自由」が指す言葉は人によって全く違いますから。

したがって、数学に限らず学問は自由がなくては死んでしまいます。

今の学校教育における数学も、もちろん自由です。
しかし、多くの人が数学に「不自由さ」を感じているのではないでしょうか?
もっとも、「数学に限らず」でもあるでしょうが。

この先も刺激的な言葉が続くのですが…

以前にも、この13th-noteにおいて数学とは何か(2009)数学はどこへ?と書いてきました。しかし

「数学とは何か?」

という問いに

「自由な学問である」

と答える観点は全くありませんでした。

自由とは「結果については自分が責任をとる」

数学は、他学問に比べればずっと、結果について責任を持ちやすい学問です。

基本的に、答えが一つしかないからです。

もちろん、数学に対する考え方、姿勢、感覚、そういったものは多様です。
しかし、「数学化されたもの」に関しては、誰がやっても、「矛盾のない正しいやり方をすれば」答えは一つです。

ですから、複数人の間で異なる結論が出れば、誰かが間違っています。
そして、それが誰なのか、明確に分かり、誰が間違っていたか責任を取ることも簡単です。


これについて、数学と無縁な生活を送られている方は特に、「厳しい現実の世界だな」と思われるかもしれません。
しかし、むしろ逆なのです。

数学の歴史上、大数学者がミスを犯した例は多数あります。
有名な問題が「解かれた」と思われたものの、実は間違っていたというニュースは枚挙に暇がありません*2

しかし、その「ミス」に対して非難の声があがることは、たいていありません。
まず、その「ミス」が解決の糸口になることが多くあると数学者はよく分かっているからです。
そして、数学に「ミス」はつきものだ、とほとんどの数学者が理解しているからでしょう。どんなに注意深くやっても、数学には「ミス」がありうる。そこには誤字や脱字とは全く別種の難しさが潜んでいる。だから声高に責めることは多くない。


数学において、ミスの責任の所在は容易に明確になるが、ミスを犯した者を責める者は少なく、皆が寛容に接する。むしろそこから学ぶ者もあり感謝される。

そういう大らかな面が、数学を学んでいくと育つように、私は思います。

もっとも、これがある程度進むと、なかなか一般社会では生きづらいかもしれませんが…

数学を教える者、携わる者の役目

最後に、岡本氏は以下の文章で"Column"を閉じています。

数学を学ぶときも先達が必要です。ひとりひとりの顔を見て按配しながら先を歩いてくれる人です。あれもダメ、これもダメ、ではなくて、君はこれをしなさい、とひとりひとり激励してくれる人です。
その人から、自由であることを、学ぷのです。

私は、子供達を「自由に」しているのか?
そう思うと同時に、理想と現実の狭間が頭に浮かびます。
理想を持たねば道を見失いかねず、現実を知らねば道を間違えかねない。

氏は"Column"中で次のような一文も書いています。

自由であるためには持続的な努力、ある場合には闘いすら必要です。

数学が不自由さを与えている原因は何か?
それを探し、分析し、克服していく闘いは、数学に携わる者が、常に続けていかねばならないようです。

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*1 当時、東京大学大学院数理科学研究科教授
*2 ワイルズが解いた「フェルマーの定理」一つとっても、この定理の解決に懸賞金を掛けた組織の元へ、いったい何万通の「証明」が届いたことでしょう。そしてワイルズその人も、一度、絶望の淵に立たされたのです。

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Last-modified: 2012-06-02 (土) 00:41