人を何か分類するとき、「理屈っぽい人」「直感的な人」のようなカテゴリーを使うことがあります。
または「理論派」と「感覚派」とか。
この文章のメインテーマは、論理をどこまで重視してもよいのか、という話です。
数学はしばしば、論理的な学問の代表のように言われます。
それはある意味正しく、高校までで習う内容のうち、数学が最も論理的でしょう。
実際、13th-note数学Aの第1章p.16でも書いたように、数学とは
「正しいか間違っているかが確定できる方法のみを用い,物事を扱う学問である」
とも言えます。
論理的に整備された現代の数学においては、一度正しいと証明されたら覆されることはありません*1。
一方、他の学問は、多かれ少なかれ、経験や実験結果に依存しています。
2011年9月23日に欧州合同原子核研究機関(CERN)から「ニュートリノが光より速い」という実験結果を公表しました。
この実験を検証した結果次第では、現代物理学を根底から書き換えなければなりません*2。
しかし、何ごとも、過剰な依存は禁物です。論理は万能ではありません。
第一に、「世の中には,正しいか間違っているか,完全に決定することができない問題も多い*3」のです。
ですから、正しいor間違いの二者択一ができない内容に、論理的思考を用いる場合は細心の注意が必要です。
Aという前提からBという結論を導いたとします。しかし、Aという前提が99%くらいしか正しくないならば、Bという結論も最大で99%しか正しくないのです。例外が起こりえます。
仮にその論理的思考が精緻で完璧であったとしても。
第二に、論理的思考が完全に支配できる内容 --- つまり、正しいか間違っているか完全に決まる内容 --- であっても、論理的思考は万能ではありません。
非論理が必要なのです。
Aという仮定からBという結論が導けないか考える。しかし、それが「直感的・経験的」に導けそうであるからこそ、論理的思考を用いて導こうとするのです。
いや、そもそもAという仮定から「Bが導けるかも?」と思わせてくれるのは、殆どの場合が直感なり経験です。それを論理で確かめていく。
つまり、論理は非論理を後追いするケースが多い。
極論すれば、論理は非論理のおかげで活かされているのです。
じゃあ非論理が論理より優位か?と言われれば、それももちろん誤りです。
正しい直感を養うには?直感には誤りも含まれることが多いです。
経験を正しく積むには?特殊な場合にしか通用しない経験則で世の中は溢れています。
直感や経験といった非論理が持つ、そういった弱点を強力にサポートしてくれるのが、論理です。論理が太鼓判を押せば実に心強いです。
結局、この文章のひとまずの結論は
論理と非論理は、互いに補完し合うものであり、互いに高め合うべきものである
ということです。また、別の側面から言えば
論理も感覚も経験も、正しい結論を導くための道具にすぎないから、それぞれの長所を活かしていいところ取りができたらいいですね
ということです。
そこで、冒頭の話に戻ります。
「理論派」と「感覚派」で人を分類するとき、分類の仕方によっては私は??と思ってしまいます*4。
もし、「理論先導型」「感覚先導型」のニュアンスで分類されていたらよいのですが。
しかし、世の中には「理論派」「感覚派」という言葉が狭い意味で用いられ、また、自分自身を特徴付け、
それがまた、バランスの悪い「理論派」「感覚派」を産み出しているように思います。
だいたい、「論理的に正しいから正しい」というのも、感覚に過ぎません。
もしかしたら、「論理的に正しいから正しい」という感覚は、単なるブームかもしれません*5。
実際、論理的正しさの価値が信用されていた時代は、歴史の一部分しか覆っていないのです*6。
最後に、話を飛躍させて終わろうと思います。
数学さえ学べば論理的思考を身につけるのに十分とは私は思いません。
なにしろ、数学は「論理が支配できる範囲、正しいか間違いかが確定できる範囲」しか扱わないのです。
しかし、世の中はもっと広い。
数学が扱えない世の中もきちんと扱って初めて、論理と非論理のちょうどよいバランスを獲得することができるでしょう。
それでも、論理しか通用しない世界(=数学)を学ぶことは、不可欠でしょう。
人は生まれたとき、論理的に考えることは出来ません。直感と経験だけです。
だから、生まれたての子供とは真逆に位置する数学の役割は大きいのでは。
それは、数学を学ぶ理由の最も重要な一つでしょう*7。そう私は考えています。