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「その3」では、私の最も強調したいことの一つを、記そうと思います。
私は、次の視点を大事にしたいと思っています。
デジタル教科書・教材の導入は、教育をより良くするとは限らない。悪くする可能性もある。それらはしょせん「道具」であり、結局は「デジタル教科書・教材という道具を正しく利用したとき」教育はより良くなる。
次の2つの側面があります。
基本的に、導入賛成派は、日常的にデジタルなものを使っていることが圧倒的多数である。
また、ある人が「デジタル教科書・教材が教育に良い結果をもたらしうる」と考えるとき、
その根拠の中には、「普段自分が、デジタルから良い結果をもらっている」ことが
含まれている可能性が高い。
そこに盲点があることに注意したい。私も含めて。
類は友を呼ぶ。
導入賛成派の議論には、導入賛成派しか基本的には集まらない。
そして賛成派はデジタルを使いこなす。
賛成派ばかり集まった議論では、よほど注意深くしないと、反対派が懸念している問題を、反対派が納得できる形で解決することは難しい。
解決するためのベストな方法は、客観的なデータに基づくことである。
「私はこう思う」という主張は大切であるが、それだけでは議論にならない。
では、客観的なデータとは?
その4で少し述べようと思うが、それは、ウェブ閲覧についてのデータ、インターネットを利用した学びについてのデータ、脳神経学のデータ、などである。
私が、デジタル教科書・教材に賛成し、それらが教育に良い結果をもたらす可能性がある
と考える理由は、一言で言えば、次の一点に尽きる。
もちろん、パソコンを一切使わない生活はあってもよい。
しかし、これから育つ大人になる人たちには、パソコンを使いこなすチャンスを与えなければならない。
日本では、江戸時代から読み書きそろばんが都市でも農村でも相当浸透していたという。藩によっては8割、9割が寺子屋に通っていたというデータもある。
あの当時、本を読んだり計算したりが必要だったから皆は学んだのだろうか?
推測の域を出ないのだが、都市の人はある程度は必要があって学んでいたことも多かっただろうが、農村の人はどちらかというと、必要だから学んだというよりは学ぶのが楽しかったのだろう。その一端が、日本各地の神社に奉納されてきた「算額」に表われている。「算額」には、自らの数学(今で言う「和算」)の力量を競い合い、それを楽しむ様子が溢れている。
現在の「パソコンを使うことが必要だから学ばないといけない」時代に比べて、
学ぶことに関しては幸せな時代である。
江戸時代の「読み書きそろばんの浸透」のおかげで、
明治時代に入り西洋の学問が大量に輸入された後、
瞬く間に日本人がその学問を吸収できたと言われている。
おそらくそうだろう。江戸時代の識字率は、当時の世界全体の中でかなり高い水準にあった。
パソコンはアメリカで産まれた。そして世界に広がった。
ある意味、現代の黒船としてパソコンの浸透を考えれば、
歴史から学ぶことはできるのではないだろうか。
江戸末期や明治初期の人々のうち、
黒船に対してどのように考えた人々が、世の中を正しく導いたのか?
西洋の学問に対して拒絶した人、吸収した人、どちらが世の中を正しく導いたのか?
そのように考えるとき、
現代の我々は、パソコンなどを用いたデジタルな物事の扱いを自らのものとし、
その良い面、悪い面を良く見極めながら活用し、
今の社会を、より良いものにしていく努力が必要ではないだろうか。
「デジタルな物事の扱いを自らのものと」するとは、
単に携帯電話やテレビゲームを使いこなすことではない。
もう一つの先の、次元で使いこなすことが求められる。
デジタル教科書・教材の導入はそれを実現する可能性を持っている。
さて、「その4」において、また別の話題を取りあげようと思っていましたが、
素晴らしい本に出会ったので、ここで、大きく方針転換をしようと思います。
続く>>私見その4〜本との出会い