(お詫び)この記事は、とても長いです。すみません。 この記事のきっかけ †私の周りで何人かが話題にしていた本 「ほんとうにいいの?デジタル教科書」(新井紀子著、岩波ブックレット No.859) を読んで、各項目毎に難しくなく手短に書かれていて一般向けに有用であるが、 どの点で誤解を招きかねないと感じたか。 しかし、一般人が学校現場を観察する機会は少なく、 また、私事ではあるが、新井紀子氏とは日本数学協会の掲示板でデジタル教科書について議論をしたことがあった。 そういうわけで、私なりに、感じたことを書き出すことにした。 なお、ちょうど昨日、林向達先生が、こんな書評を書かれた。参考になると思います。
「はじめに − 平等に是非を議論するために」より †p.2(「デジタル教科書の導入」=「紙がデジタルで置き換わる」という大きな誤解) †『明治以降、私たちは紙の教科書で授業を受けてきた。それがデジタルに置き換わるとするならば、学校教育に大きな変化をもたらすに違いない。』 冒頭のページにあるこの一文に、注意が必要だと思う。 私の知る限り、デジタル教科書の利点欠点を考えている人たちの多くは たとえばDiTTは、2012年6月に提案した『デジタル教科書法案 概要』*1において、以下の3つをいずれも可能とする方針だと書いている。
デジ教研で議論してきた人は「置き換わる」というイメージはあまり持っていないと想像している。「紙にデジタルが加わり、よいとこどりを目指す」のイメージではないか。 新井氏は、この一文を本の冒頭に置くことによって「最も危険な導入に警鐘を鳴らす」意図を込めていたのかもしれない。 p.3 †2行目『見慣れないカタカナ語が氾濫している』 8行目『専門家と称する人々に尋ねたりしたら・・・冷笑されてさらに横文字を並べられるかのどちらかである。』 正直、この段落を読んで、新井氏はどんな悪い人を想定しているのかと感じた。 ただ、新井氏にこういうことを書かせるような何かがこの世に存在するのだろうと、注意したいとは思った。 「1 「デジタル教科書」とはどのようなものか」より †p.5,6 「デジタル教科書の構成要素」 †ある意味では、この4要素『ハードウェア』『ソフトウェア』『コンテンツ』『ネットワーク』ですべて。 そうしないから、デジタルが無機質に感じられるような気が、私はしている。 p.7 最後の段落 †『新しいメディアが登場すると、そのメディアでは学習がうまく進まない子どもが必ず、ある確率で発見される』 『要点しか書かれていないパワーポイントではまったく理解ができないという数学者』 私も、要点しか書かれていないパワーポイントでは、数学の場合、まったく理解できない人間である。 そしてなにより、この問題は「紙をデジタルで置き換える」なら大問題だが、「紙とデジタルのよいとこどり」ならば、さほど問題なのだろうか。デジタルに向かない内容は、紙でやればいい。 p.8 †『デジタル化によって恩恵を受ける弱者もいる。逆にデジタル化が新たな弱者を生むこともある。デジタルによって可能になることもあれば、失うこともある。誰にでもやさしい万能なメディア……など、基本的には存在しない』 まったく正しいと思う。ただ、これがデジタルにストップをかける理由にはならない。 この本にもある通り、ディスクレシアという「紙では学習がうまくできない子ども」が世の中には一定数存在するが、デジタルの機能で学習できる可能性がある*2。 結局、「学習がうまくできない子ども」の増減は、総数で考えるべきだろう。 とはいえ、そもそも、「紙をデジタルへ置き換え」でなく、「紙とデジタルのよいとこどり」を考えていくなら、注意されるべき問題程度のものではないか。 『誰にでもやさしいメディア』・・・現実には困難が多いでしょうが、技術に期待したいです。昔は、紙だって、誰にでもやさしいメディアではなかったのですから。 p.11前半 †廉価版のタブレットの例が書かれている。 私としては、たとえば、こう書きたい。 p.12 †7-8行目『文部科学省は、デジタル教科書が・・・ハードウェアまで含むのか、明確な結論を出していない。』 これは、案外注目されていない。DiTTの議論はこの点を踏まえて財政措置案を提示している*3が、予算を考えるうえで重要である。 p.12 †後ろから2,3行目『(デジタル端末導入の是非について、保護者に聞いたとき)「ハードウェアが有償であってもデジタル教科書導入に賛成するか」「紙の教科書を無くしてデジタル教科書で代替することに賛成するか」の質問項目はなかった』 これも重要な視点で、今後実現されてほしい。 p.13 †9,10行目(検定教科書という概念をなくしたうえで)『教科書や教材の作製を・・・有志の手によって自由に作らせてはどうか、という意見も存在する。ウィキペディアなどネット上の有志によるコンテンツ作りが一定の評価を得ている現在・・・』 こういう極端な意見があるのだと少し驚いた。誰からの意見で、どれくらい存在するのだろうか。私はデジ教研でもDiTTの発表でも国からの資料でも見たことがない。 なお、教科書の検定については、現在の形が自然に思われてしまいそうだが、実際には、戦後だけでも紆余曲折を経ている(現在の形は当初暫定的なはずだった、とか、家永教科書裁判とか)。 p.14 †真ん中あたり、韓国の研究結果について否定した後、経験論から、デジタル機器の端末は目や精神への負担があるという指摘につなげているが、これはさすがに、韓国の研究結果に対して失礼ではないか。 ちなみに、厚生労働省は、労働環境におけるデジタル機器の利用について「VDT(Visual Display Terminals)作業における労働衛生管理のガイドライン」(平成14 年)を作っている。このことは文部科学省も言及している*4。 p.15 †2段落目『ひと目で全体を隅々まで見渡すことができる、という一覧性』 これは、デジタル教科書端末には、確かに必要と思う。 p.17 3行目 †『切り捨てられると理解を深めたり、思考をスムーズに表現したりするうえで障害になりうるファクター・・・・・・それらを無視して、教育や学習をデザインしてはならない。』 とても重要な指摘と思う。 p.17, 7行目 †『ハードウェアだけでなく、「デジタル」には様々な制約がある。』 たしかにそうだが、「紙」でも同じではないか。だから、これはデジタルを否定する根拠にはなりえない。 「紙とデジタルの良いとこどり」なら、デジタルの制約は何の問題もない。 p.21 デジタルノートの問題点 †デジタルノートでは、反応が0.1秒遅れるとか、鉛筆より正確にコントロールできない、あたりが問題なのは、同意。 だから、デジ教研でも「ノートは紙が基本、ただし端末内のデジタル教科書へ(メモなどを目的に)書き込むことはできる」といった議論が、1年位前から主流になっていると思う。 p.24 †これは、たまげた。2行目にデジタルノートを 『毎時間、途中経過も含めて一年分保存』 とあり、そのデータの活用法として 『自分の教え子のノートを三五人分、毎日チェックする』 とある。こんなことのために途中のデータを使うと想定している人はいるのだろうか? この利用法からデジタルの導入に批判、の議論を展開するならば、 誰もそんなことをしようとは思わないだろうけど。 「2 ソフトウェアから見た問題」 †p.27-31, 文章の理解とリンクの関係 †この実験については重要。ただ、ここから 『ハイパーリンクの存在によって読みを助けられるというケースは、想像以上に少ない』 と結論付けるのはどうか。 また、 『参照可能な情報が増えることが必ずしも理解を助けない』 ような例として、文学作品で 『「紅茶」「蜂蜜」「ミルク」「自由」「機械技師」・・・にリンクが張られていたと考えよう』(p.29) とある。これは、なんという非現実的な具体例だろうか。 大事なことは「どのような時にリンクを張り、どのような時に張らないか」の検証であり、 以上、ここの記述は、私には「デジタル教科書の否定ありき」で書かれたとしか思えない。 p.33 †3行目から 『この原稿を書いている間にも、メールソフトから、フェイスブックから・・・数十秒ごとに・・・お知らせ(アラート)が表示される。・・・最近の典型的なコンピュータの使い方』 と紹介され、その影響が論じられているが・・・ 確かに、アプリ等の設定を間違えると、コンピュータのアラームだらけで集中力がそがれる。 p.36 †最後の段落の内容は極めて重要だと思った。 ただ、ちょっとこの断定の仕方は、教育ソフトウェアを作っている人に気分の良くないものではないかな、という気はする。 いずれにせよ、私は、教育ソフトウェア開発の人と、現場教員がもっともっと近しくなるべきだと思うし、本書も、そういう建設的な提案をしてほしかった。 「3 デジタルコンテンツと学びの質」より †p.38 †手書き入力うんぬんのことが書かれているが、このあたりは私も難しいと思うので、私も、紙のノートはまだ残ると思っている。 もっとも、p.39に書いてあるような『式の変形問題や証明問題』までデジタルにやらせる必要はあるのか。ここにも「紙をデジタルで置き換える」というイメージが邪魔をしていると感じる。 p.42 †1-2行目『ゲーム上で問われる問題と、ゲームの上での問題解決の間になんら意味のある関係を見出し得ない』 シューティングゲーム系の学習ツールには、過剰な期待をしないようにしたい。でも、大半の子供は、そんな期待していないと思うが。 なお、現在の脳トレはもちろんのこと、ゲームと教育のコラボは昔から多い。 p.45 †最後から2行目『「学び」が・・・量的評価可能なものの中にのみ存する考えるのであれば・・・』 なぜ、新井氏はこうも極端なのか?量的評価可能なものだけでも分かることもあるだろう。 p.46 †最後の段落 ここの段落の内容はちょっとびっくりしました。 『統計的な「傾向」は必ずしも因果関係を示すわけではない』ことは確かに重要。13th-note数学I教科書の第4章でも最後に触れている。 統計結果が「上がった」からといって、「必ず上がる」わけではない。そんなの当たり前である。 そういう論理で警鐘を鳴らすのは、どうかと思う。 p.47 †ここで紹介されている『レポート自動採点システム』をデジタル教科書に搭載しようと思っている人は、私は今のところ、知らない。 このシステムの紹介によってデジタル教科書へ警鐘を鳴らすのは、理解できない。 「4 ネットワーク配備をめぐる政治状況」より †p.54,55あたり †デジタル教科書の整備が、学校に光回線を引くための手段である、という話は、他でも私は聞いたことはある。 また、高校への配備を先にしないのか、という点については、私は「小中高すべてやろうとすべき」と考えている。 ただ、『入試に有利とは思えない情報教育に高校があまり関心を持たないという事情』(p.56)は、相当にでかいと思う。 もう一点として、小中の教材は作りやすい(作り手が多い)けど、高校の教材は作りにくい、という点も、あるように思う。 p.58 ネットワークの回線の太さの話について †私の思った案。現場の先生の端末に「今、学校全体の回線はこれくらい余っている」かが分かるメモリを作ってはどうか。 「今からみんな、このURL開いて動画見てね」と言う前に、自分の端末を見て 「5 教育の「クラウド化」と予算」より †p.62 †真ん中くらい, クラウドサービスが突然打ち切られる危険性は、確かにリスクとして考慮されるべき。 p.63 冒頭の段落 †『デジタル教科書等のコンテンツをクラウド上に置き』 p.65 †後ろから7−6行目『教育のデジタル化を経済成長の「起爆剤」にと主張』 ちゃんと確認できてないが、この主張の真意は「教育のデジタル化によって、デジタルが持っている利点欠点を正しく理解した子どもが育ち、20,30年後のデジタル社会を担う大人たちが育ってくる」ことを願っての「起爆剤」ではないのか。 「おわりに − デジタルへの興奮を自覚的に鎮める」より †p.68 †7行目からの段落にあるような夢想を、どれくらいの現場教員が持っているだろうか?デジタル教科書に可能性を感じている人のどれくらいが、夢想しているだろうか? この記事の終わりに †本というメディアの影響は、やはり大きい。 そういう意味では、Webページは本より融通が利く。 結局、主張には、本で発表されるにふさわしいものと、デジタルで発表されるにふさわしいものがあるのではないか。 |